伝統と
歴史

より便利、より多く、より安くという競争に、及源鋳造はついていけずに、蚊帳の外になっているのかもしれません。

しかし便利な暮らしと引き換えに、皆が忘れてしまったかもしれない、指の間からこぼれ落ちてしまった暮らしの中の愉しさを、我が社はこれまでも、そしてこれからも大切に思い続けていきます。

ボタンを押せば製品が出来上がるような環境ではありません。鋳物工場では、砂を握ってその感触を確かめ、溶かした鉄の色を見つつ汗を流し、重い鋳型を上げ下げしています。

ある意味ではモノ作りの原点に近いのかもしれず、日本では一周遅れているのかもしれません。溶けている鉄はわがままでもありながら、美しく、型を作る砂は毎日のご機嫌を伺わねばならない頑固ものです。付き合うのも大変ですが、愉しい毎日です。

ここで作られたモノは、皆様の暮らしを便利にしたり、楽にするモノではないでしょう。しかし、改めて愉しさの手応えを感じさせてくれるモノだと思っています。

我が社のモノは、使う上で少し手間がかかるかもしれません。その手間こそが愉しさなのだと思います。

愉しんでいるご自分を
たのしんでください。

時代の変化の速度が速すぎて mugu.co.jp histry 及源の歷史

岩手県奥州市の鉄器の歴史は、奥州藤原氏が平泉に栄えた時代(千九十年頃)に始まります。平泉の王・藤原清衡は現在の奥州市の東に位置する江刺豊田の城主でした。そしてこの地に江州(現在の滋賀県)から鋳物職人を呼び寄せ、鋳造業を根付かせ、その後中尊寺の梵鐘などを製造させました。平泉は二千十一年にユネスコの世界遺産に登録されましたが、その文化の流れをくんだ地場産業として、この地に鋳物集団があります。

及源鋳造は、明治/大正時代は及川源十郎鋳造所と言い、昭和二十二年に法人化されて及源鋳造株式会社となり現在に至っています。

及川源十郎鋳造所時代は、ご飯を炊く「つば釜」「お汁用の鍋」や牛馬などの家畜用の「カイバ桶」なども作り、北上川を石巻に上り三陸に出るというルートで、いわしを煮るために使う『いわし釜』なども運びました。お風呂を沸かすための「風呂てっぽう」も生活必需品でした。 戦争当時は、3代目源十郎を筆頭に職人の何人かは戦争に駆り出され、工場は軍需品生産を強いられました。戦争後は,鍋釜作りが復活し、産地は忙しい時を迎えました。

高度経済成長を経て工場には鋳造機械が導入され、腰をかがめて全てを手作りで作り続ける時代は終わり、デザイナーを活用した商品の力強さのおかげでオイルショックを乗り切りました。

海外へは昭和四十年代に商社経由で輸出が始まり、北米、ヨーロッパ、オーストラリアなどへ輸出しています。最近では、自社でマーケティングを行い直接輸出も、スタートしました。平成に入り自社開発の新商品が充実したこともあり、南部鉄器の及源から及源の鉄器へマーケットも変化して来たように思います。

もはや進化はないだろうと思われていた九百年の歴史をもつ南部鉄器に、「上等鍋(特許取得)」が新製品として登場したのは、平成十五年。工場の段取りを見直し職人のスキルを掘り下げた結果美しい鋳物を作り出していたことが、「naked finish」の下地となっています。

二千十一年三月十一日の東日本大震災では、建物も工場も大きくダメージを受けましたが、創業以来幾多の困難を乗り越えてきた及源鋳造は、皆様のお力添えによりまた、社員の頑張りにより、今もコツコツと鋳物と向き合うことをさせていただいています。

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